柳は緑 花は紅

世界は愛に満ちている…猫と音楽と、ちょっぴり不思議なことが好き!

元気です

ほぼほぼ、他の人のブログは読んでません。

お仕事用のブログのみ動かしていますが、アメブロは嫌いなのでYahoo!ブログからアメブロに移行した人達のブログはまず読んでいません。

 

はてなブログは作りがしっかりしていて、お金を取らないnoteみたいな感じですよね。

それもあってか、気軽に書ける感じがせず疲れてしまいました。

ブログの性格ってあるような気がします。

 

何処かでひっそりと続けようかな…なんて思ったりして。

 

(追記)

そうは言ってもやはり書き慣れた古巣。iPadとの相性は良く無いけど、書きやすいんですよね。

というのも、実は最近、どこにも書けないことが多くなって来て、どこかに吐き出したい気持ちでいっぱいなのです。ちょっとブラックな私も出て来てしまうかもです。

でも、顔本とかでは書けないことが多くて辛いのです。

 

なので、またしばらくはこちらに書くかもしれません。

太っ腹や

3月中旬から鳴りを潜めていたわいも、ようやっと文章書く気になって来た感じ。

ムラが多すぎるんやけどな。

 

それはそうと、勉強さしてもらってるセンセがまた、太っ腹な企画立ててはるわ。

さすがや。

何処にもおもねる事が無いのんがいつも偉い思いますのんや。

第一弾もおもろかったけど、第二弾も楽しみや。

職業として標榜するならこれくらいは出来んとあかんやろなて思いますねんや。

なぁ、ちょいと出来ます言うような素人さんは引っ込んどってくれなはれ。

 

プロとしての太っ腹なサービス、十分に堪能さしてもらいます。

て、なんでヘンテコリンな関西弁か言うたら、一応敬意を評してるつもりなんでっせ。

 

 

夢日記 3/26/2020

不思議と以前いた職場のような雰囲気。

工務課とかそういう事をしてそうな事務所内。

お弁当だか食べ物を買いに行くが、ずっと外においておいたため悪くなっているのではないかと思う。

検査に出すのに、それではなくてきちんと保存しておいたものを出せば良かったと思う。

どうも、側にいたのが前職の〇井さんのように感じた。

 

場面は変わって、今度はFBで良く知っているM子さん。

友人のHちゃんが新潟に来ると言っている。

あれ、もう瞑想会はやらないって言ってなかったっけ?

そう思ったあたりで目が覚めた。

残しておきたい文章

3月は、目まぐるしく変わる毎日に落ち着いてブログを書く余裕がなく過ごしています。題材は多すぎて困るほどなのですが・・・。

 

そこで、残しておきたい文章がFBで上がって来たのでコピペしておきたいと思います。

書いているのは、大阪音楽大学学長の本山秀毅さん。昨年の同大学の卒業式で、卒業生に向けて書かれた文章です。これは、音楽だけでなく、これからの人生や生き方にも大いに当てはまる内容ではないかなと思います。こんな先生に学べる学生は羨ましいですね。でも、きっと学生の頃にはわからない内容かもしれませんね(笑)

 

 

 

 

 

太鼓の達人

今日の学び。「待たせてる」と思うとかむ。想定外のことが起こると焦る。(長文注意)

卒業生の皆さん、修了生の皆さん、ご卒業、修了おめでとうございます。合わせて本日の卒業式にご臨席を賜りましたご家族、関係者の皆様にも大阪音楽大学の教職員一同を代表して心からのお祝いを申し上げます。
後で歌われる大阪音楽大学の校歌は「大正4年」と始まりますが、本学の歴史は大正、昭和、平成と連綿と時を紡いで参りました。この時期に繰り返し用られる言い回しですが、平成27年、2015年の創立100周年を経て、まさに本学は本日「平成最後の」卒業生を送り出そうとしています。本来ならこの卒業式において、卒業される皆さん全てのお名前をお呼びして、お一人ずつ卒業証書をお渡ししなければならないのですが、時間の関係で叶いません。まさに今、それぞれの専攻、コースを代表する方が卒業、修了証書を受け取ったこの時こそ、皆さんにとって、人生の節目のひとつとなる大切な瞬間であることを今一度、心に留めていただきたいと思います。

さて、皆さんにとって「卒業式」は初めてではありません。小中高と経験されてきた何度目かの式典となります。それでは、今回の卒業について、これまでの卒業式といったい何が異なるのでしょう。今までの卒業には、皆さんに引き続き何らかの形で「学ぶ」環境が約束されていました。特に音大に入学する節目の時には、次に続く学びに胸を高鳴らせたことでしょう。しかし今回、進学して学び続けることが決まっている人以外は、皆さんが自ら決断して選択された「音楽の学び」についての、一つの区切りとなります。そしてその後には、決して保護された穏やかな毎日が約束されているわけではありません。受け身でも時間をやり過ごすことが出来た毎日は終わりを告げ、一日一日、自らの意志が反映される時間となるのです。もちろんこのことに気付いている人は少なくないと思いますが、同時にあまり考えたくない、触れられたくない部分でもあるかも知れません。
私が自らのことを振り返ると、卒業して初めて「学生証を持っている」ことの有り難さを思い知りました。自らが置かれている立場を尋ねられてすぐに「学生です」と答えられることの幸せはかけがえのないものでした。今思い返すと卒業時には、羅針盤のないまま船出をするような茫漠とした不安と、自分の先に待っているもの、これから出会うべきものに対する理由のない確信を伴う期待をも感じたものでした。

皆さんがこのたび「卒業」や「修了」という人生の節目を迎えられるにあたって、われわれ教職員が皆さんからの答えに緊張し身構える質問があります。それは「あなたにとって大阪音大での学びは、どのような意味や価値がありましたか」というものです。皆さんの答えに、この壇上に座るすべての教職員が固唾を呑むでしょう。あるいは、質問の角度を変えて、みなさんの入学式のことを思い出していただいて、当時の自分自身と今日の思いとを比較する、という切り口でも構いません。もちろん皆さんの答えは一様ではなく、一人ひとり異なるものになることは当然です。大きな満足を感じる人もいれば、物足りなさを感じる人、あるいはあからさまな不満まで、それぞれの思いがあるに違いありません。われわれ教職員はそれらを喜びを持って、あるいは反省とともに謙虚に受け止めなければならないと感じています。

入学時に比べてそれぞれの専門に対する知識が身につき、技術が向上したことについては今更言うまでもありませんが、そのことを含めて、一体、皆さんにとってこの場所での学びがどのような価値をもたらしたのでしょうか。

反語的な言い方が許されるなら、音楽大学での学びなどがなくても、音楽を愛すことが出来、深いかかわりを持つことが出来ます。皆さんの知り合いにも音楽に関係するサークル活動に没頭する人がいるように、趣味として音楽に向き合う人の中にも、音楽に対して情熱を持っている人が大勢います。そればかりかわれわれよりも技術や知識に秀でた人も少なくありません。これから皆さんはそのような人たちとも多くの接点を持つことになり、音楽の世界の広さを知ることになるでしょう。

「駅のピアノ」という、ヨーロッパの鉄道ターミナルや空港のロビーなどに設置されているピアノがあることをご存知の方もおられるかも知れません。好きな時に弾きたい人はお好きにどうぞ、という趣向のものです。最近BSで番組になっていますが、私は以前よりフランスの国鉄駅に置かれているピアノが気になっていました。それを弾く人を観察していると、おおよそアカデミックな教育などは受けていないにもかかわらず、われわれの常識を超えた指使いで、素晴らしい音楽を表現する場面に出会います。技術だけではなく、そのレパートリーも、子供の時からおきまりのコースでピアノを学んでいる人のものとは大きく異なります。しかしそれらの演奏はおおむね、身体から溢れんばかりのメッセージを持っていて、彼らが心から愛している様子がひしひしと伝わる音楽なのです。まさに音楽が彼らにとって唯一無二の大切な存在であることを想像させるのに十分なものなのです。BSの番組で扱われる、弾く人の経歴や音楽との関わりについてのエピソードには、音楽と人生について、下手な話より余程貴重な気付きがあるように思います。

もう一つ例をあげましょう。ヨーロッパに「ロマ」と呼ばれる、音楽に関して非常に優れた能力を持っている人たちがいます。楽器の演奏やその旋律において、大作曲家をも魅了してその作曲にも盛んに取り入れられていることはよく知られる通りです。しかしロマの人々は、その演奏技術や表現を音楽大学で学んだのではありません。それらは、彼らの生き方や、生活そのものから生み出され、学ばれ、そして継承されています。逆にその音楽表現が「彼らの生き方そのもの」となっているといっても過言ではありません。そしてそれらのことがその音楽の魅力を大きく高めています。

この「生き様と音楽とのかかわり」には、われわれにとっても大きなヒントが隠されています。

音大での学びについて、皆さんなりに競争や課題に対して立ち向かい、克服されてきたことでしょう。しかしロマの人々と同じように、自分自身の生き方を賭けて取り組んだという人はそう多くはない。音大での学生時代は人生という大きな視点で見ると、好きなことに向き合えたきわめて幸せな時間であり、そこでの学びは温室の中で大切に育てられた植物のようなものかも知れません。

しかし今、卒業という節目を迎えて、今まで触れることのなかった「自分自身の生きざまと音楽とのかかわり」という課題が、否応なしに皆さんの目の前に突き付けられることになります。
今日の日を迎えて達成感にあふれる皆さんには、少し期待外れのメッセージかも知れませんが、ここで音楽の全てを学んだなどとは決して思わないでください。われわれもそのような不遜さは持ち合わせていません。皆さんの「卒業」という位置は、果てしなく続く音楽の世界から、また皆さんの人生全体から見ると、まさにようやくスタートラインに立った程度の位置である、と言えるかも知れません。そしてこれから人によっては一生向き合い続けなければならない存在となるのです。

この「生き方との関わり」が、サークル活動で楽しく音楽に接した同世代の人たちとの大きな「違い」です。
皆さんにとって「音楽」を生き方との関わりまでの存在にし、そのスタートラインに立たせて、進んで行くエネルギーの補充の方法を知らしめたこと、が音大での学びの意義だと言えるのではないか、と私は思っています。

加えて、これから皆さんが出会われる音楽とその周辺には実に多様な価値観や、未知の事柄が無数にあります。私は、それらを前にして常に「謙虚である」ことが、皆さんをさらに高めるための大切な鍵であると思っています。

「三つ子の魂百まで」と言う言葉がありますが、これは幼い頃の感性の育みが、人としてのその後の生き方に如何に大切か、というたとえでしょう。しかし、それは3歳までで魂の働きが完成するという意味では決してありません。それらは本来、時間をかけ、生きてゆく中で磨かれ高められてゆくものです。音楽に接することで「魂の働き」が洗練されてゆくことはよく知られています。特に感性と理性のバランスが程よく落ち着いてくる皆さんの年頃に、音楽と接することによって皆さんの心と音楽との相関関係が築かれ、相乗的に高められるとすれば、それは音楽が創り出す一つの美質が皆さんの中で実現したということになります。ここにも学びの意味の一つが見出せるのです。

このように、皆さんにとって学びの価値は、直接音楽に関することだけではなく、音楽に向き合う中で得られた「副産物」の中にも無数にあります。ある人は、目的に向かって着実に歩みを進められる計画性といい、またある人は、仲間とアンサンブルをまとめてゆく中で身についた協調性、またある人は本番をたった一人で仕切らなければならない度胸と集中力というかもしれません。皆さんがこの学びの場で、専門に取り組んだことだけではなく、その中から人として成長するヒントになるようなことを一つでも多く見出してくださったのなら、われわれにとってこれに勝る喜びはありません。「力強い音楽人をここから」。われわれが社会に向けて発信しているメッセージです。まさにこのメッセージの通り、音楽の技術や知識はもちろんのこと、それによって育まれた人としての豊かさを備えた存在として、皆さんに羽ばたいて欲しいと心から願っています。


現在、われわれの世の中は、ITを軸として目まぐるしく動いています。私がまだ小学校へ上がるまでの頃「スーパージェッター」というアニメがありました。主人公が腕時計型のトランシーバーを使って遠く離れたところとやり取りをするのを見て、幼心に胸をときめかせたものでした。それは、今や「アップルウォッチ」で現実のものとなりました。車の自動運転しかり、音声入力しかり。銀行や商店から人がいなくなる日も遠くないかも知れません。人間の夢が実現してゆく状態を発展と呼ぶことは容易いかもしれませんが、それと引き換えに喪失するもののことを考えると、手放しで喜べないような部分があるような気がしています。
小学校の卒業式のようになりますが、皆さんは誰かとしっかり向き合って話をすることが出来ますか。自らが受けた感動を自分の言葉で表現することが出来ますか。調べたいことをあらゆる方法で追求する機会がありますか。それらの役割を、望むと望まないとにかかわらず、すべてコンピュータに委ねてはいないでしょうか。これからは、皆さんの時間と思考を容赦なく侵食するコンピュータという怪物といかに付き合い使いこなすか、ではなく、最早どのように束縛から放たれた時間を見いだすかということに我々の課題は移行しているように思えます。

その意味から考えると、音楽を学ばれた皆さんは同世代の多くの若者よりはるかに人間的な位置にいることは間違いありません。
皆さんよくご存知の「太鼓の達人」というゲームがあります。打楽器を専攻した人が音楽的なセンスをもってあのゲームに臨むと、大変興味深いことに、思うように得点が出ないそうです。打楽器について確かな技術を身に着けているはずなのにと意外に思われるかもしれませんが、音楽を表現しようとする時に生まれるこの「誤差」こそが、われわれの求めるべき、そして誇るべき「美質」であり、音楽を学ぶ中で最も大切にしなければならないところなのです。世の中の価値観が、いかに無機的にかつ正確に効率よく得点をたたき出せるかに、シフトしている中で、たとえ最短距離で高い点数を示せなくても、音楽の学びから得られたこのような立ち位置は非常に貴重です。
スキルと感性との関係に常に向き合ってきた皆さんならではの能力があります。感性を伴う技術の運用。阪急電車の横並びの座席の手すりが程よく湾曲しているのをみると思い出します。技術の積み重ねが感性に裏打ちされたものに到達する。技術そのものが感性の影響を強く受けている、などなど。
おそらく皆さんは「理系」と言われる人の反対側から、山の頂上を目指してすそ野を登り始めているのかも知れません。このアプローチの貴重さは、周囲がみんな同じような感性を持っている音大での学生時代には気が付かないかもしれませんが、皆さんが社会に出られて、様々な価値観に出会われる時に、必ずその意味するところに気付かれ、この場所で学んだことについて深い感慨にとらわれるに違いありません。

式辞の中で「はなむけの言葉」をお送りするのが通例ですが、先人の遺訓や名言などではなく私のオリジナルの次のようなものはいかがでしょう。

太鼓の達人」に自らの音楽を持って向き合う時、スコアが出なくても決して失望するな。それこそ音楽の学びの価値であり、意味なのだ。そして大いに誇るべきものなのだ。

by 本山秀毅

私は今年、可能な限り皆さんの演奏に耳を傾ける機会を持ちました。一部の皆さんではありますが授業を通しての接点もありました。皆さんが、音楽の感激に高揚し成長する瞬間、高いハードルに挫けそうになる瞬間など様々な横顔を垣間見る事が出来ました。それらは私自身の喜びであったと同時に、その度に、このように素晴らしい才能の集う環境に関われることへの誇りと、その責任の重大さをひしひしと感じたものでした。私は、これだけ「感動が渦巻いている」学びの場は、おそらく他には見いだす事が難しいと自信を持って言うことが出来ます。皆さんがこれから向かわれる場所では決して同じではないでしょう。ここで得た「感動」を前へ進む糧にして欲しいと心から念じています。

この卒業式の間、私の式辞の間、皆さんは一体何を考えているのでしょう。式の終了後、誰と写真を撮る? 着付けの出来栄え? 謝恩会での段取り? それも無理からぬところかも知れません。晴れの日です。着付けの出来栄えに関係なく、皆さん例外なく輝いています。
話の内容はともかく、今日は、どうか音大で得た学びの意義と、それを支えてくださった多くの方々への感謝、そして、今後の皆さんの壮大な人生のプランに思いを馳せてください。
可能性と希望に溢れる明日に向かって、皆さんの力強い一歩を踏み出してください。健康にはくれぐれも留意して、自分の信じる道を大胆に歩み続けてください。そして繰り返しにはなりますが、音楽と関わる中で「謙虚さ」を常に備えながら進んでください。その全てが音楽家、いわゆる「表現者」にはなれない厳しい世界です。異なる世界生きて行くことを決めている人も、自らが音楽を通して得たものを大切に生きて欲しい。加えて、音楽の理解者としての矜恃は常に忘れないでほしいと願っています。

皆さんのご多幸をお祈りしています。
卒業おめでとう。

夢日記 3/19/2020

春分の前だけあってなかなか面白い!

 

見に行ったお洒落なアパート、白いカーテンがかかっていて半地下のようになっている。

全室満室で中は覗けない。

しばらくすると火事があり、行ってみるとそのアパートは焼失。

大家さんがいて(何故か白髪の老婆)、呼び止められる。

急に腰が痛いふりをしなくちゃと思い出し、腰をさすりながら差し出された椅子に座る。

 

 

場面はイベントのような会場。

ギターを弾いているけど、音色はウクレレのような音がする。

インドのお祭りのようだけど、日本人だった。

内容は思い出せないが、とても良くしてくれて楽しかった。

オカリナケース

今年の冬は編み物にハマっていました。

最初はコルミッコを編みたくて、友人に教わりながら作りました。

なんてったって編み物なんて中学生の時以来?だから、すっかり忘れていたのと編みぐるみって初めてだったので難しかった〜。

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でも、一度教えてもらうと結構なんとかなるもので、次はオカリナケースに挑戦。

今度は自分一人でやってみたので、かなりいい加減。でも、自分のだし、不格好なのも手作りの良さだと考えてザクザク編みました。

そして完成!

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今回、編みものを通して気づいた事がたくさんありました。まず一つは、私って意外と編み物好きだったんだってこと!中学生の時はブームに踊らされて編んでただけで、楽しかったっていう記憶が無いんだけど、今は違いました。本当に楽しい!

 

そしてもう一つは、編み物って何度でも編み直せて、どこからでもやり直せるって事。ほら、なんか人生みたいじゃありませんか?そこで思ったのは、そういう気持ちってある程度人生を過ごしてきた人じゃ無いと気付けないって事です。中坊じゃ到底気付けやしない(笑)

 

そんなことを学べた冬の編み物でしたが、暖かくなってきたしなー。これからどうしようかと思っていたところに次のハマるものが現れました。それについてはまた後ほど。

Fukushima 50を見てきました

ここ、新潟市でも新型肺炎が発生して様々なイベントが中止になっています。私が関わっているイベントも3月の防災イベントは中止。市の助成金を申請していて共同事業になってるからね、仕方無いんだけど・・・。

 

それでもめげずに、会場を変更して内々だけで開催する予定にはしています。なんたって3月11日という日程だけは変更できませんから。

 

そんな中、昨日から公開になったFukushima 50を見に行ってきました。東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故について門田隆将が書いた「死の淵を見た男 吉田昌郎福島第一原発の五〇〇日」を原作として作られた映画です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日

  • 作者:門田 隆将
  • 発売日: 2012/11/24
  • メディア: 単行本
 

 

映画は地震が起きた3月11日からの五日間、津波による非常電源喪失から原子炉に水が供給されなくなるとメルトダウンという状態がおこり、東日本一帯が壊滅してしまうという状態を防ごうとする職員たちの話です。

 

詳しくはネタバレになるので書けないけど、ほんと久しぶりに泣きました。あの当時あった地震による不安と恐怖だけでなく、放射能という目に見えないものの持つ怖さ。その怖さは今のコロナの比ではなかったはずです。

 

今現在でも、私の住む地域には福島県内から避難されて来た方たちが多く暮らしています。その方たちが抱いている想い、そして故郷福島を守りたい、ひいては日本を守りたいという現場の方たちの想いをひしひしと感じさせられました。

 

映画はかなり当時の状況を克明に再現しているようで、吉田所長役の渡辺謙(最後のエンドロールみて初めてわかりました)などは当時の福島原発の職員が「まるで吉田所長が乗り移っているようだ」というほどソックリだそうです。そして、最後の場面・・・。こんな時、マスクしていて良かったなぁと思いました。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を隠すのにもってこいでした。

 

ぜひぜひ、お近くの映画館に行って見て欲しい映画です。

www.fukushima50.jp